1944年8月24日のパリ 塚原琢哉
私の目の前に一冊の古びた写真アルバムがある。そのアルバムの「1944年8月の栄光の記録」と書かれた手書きの表紙が、重々しく私に検証の意欲を起こさせた。
私が1976年パリで生活していた頃、トランポロイユの画家達とクリニヤンークールや週末にパリ郊外で開かれる蚤の市によく出かけた。そこには骨董店の路地が連なり、路上に広げられたアンティークの山積がフランスの歴史の証をこまごまと語りかけていて、ここを訪れる人は誰もが胸を踊らせ、名もしれぬ持ち主の生きた時代を忍び、楽しむことができた。
なんと言っても19世紀末の花の都は近代フランスの中心だった。1900年に開かれたパリ万博は新しい時代を予測させた。そこにはエジソンのグラフォノフォン、アールヌーボウやデコなどの新時代の装飾品や機械などが出品され、古き良き時代と20世紀のきらめく未来とを結実させる文明と文化の博覧会だった。しかし、未来を約束した二十世紀の曙はけして幸せの時代とはならなかった。
改革の時代に酔いしれた芸術の都にやがて暗い陰が忍び寄ってくる。新古典主義から印象主義へと時代をぬりかえた美術運動は、その後急速に活動を始めた立体派、未来派、超現実主義、そしてドイツや北欧の表現主義など、次々と新時代の躍動が始まった。
パリを中心にした二十世紀の黄金時代は、その後に起きた二つの大戦とけして無関係ではなかった。運動には必ず理由と原因があることを実感させられたのは、1994年パリのポンピドウセンターで開かれた「都市」展は、建築家の都市プランと世界のコレクションから集められた絵画とで検証した1876-1993のヨーロッパにおける都市の改革と滅亡の歴史であった。
その目まぐるしく移り変わる時代に人々が愛用した家具類や装飾品が蚤の市に出され、その中に混じって、「栄光の記録」のアルバムはガラスケースの中に納められていた。私は手に取ってアルバムのページを開くと観光ムード一色のパリが瞬間に硝煙に包まれてしまった。
1944年6月ドイツの戦況が傾き始めた頃、史上に残る連合軍のノルマンディ上陸作戦が始まった。私の目の前のアルバムの一ページには、パリ地下組織警察と市民による一斉蜂起の突撃指令書に続き、突撃隊員のポートレートのページ有り、緊張高まるドキュメンタリー写真のページが始まる。ドイツ兵士の死体。砲撃の黒鉛に覆われたオペラ座界隈。銃撃戦を交わすパリ市民。両手をあげて行進するナチ親衛隊。ついにパリ開放の時を迎えた8月24日の栄光の日は凱旋門をくぐり、シャンゼリーゼを行進するドゴール、チャーチル達の姿をとらえている。
その「栄光の記録」は忘れ去ろうとしている二十世紀を甦らせた。私は現在のパリから、生々しい現場を特定して撮影し、「栄光の記録」の現場を対比させた。威風堂々とした観光都市の建物を撮影していると、殉職者への鎮魂を風化させない激戦と殉死者の記述がビルの一角に彫り込まれているのを見つけ、これが時代を生き抜いてきたパリの栄光の記録であろう。
パリ市警察国民戦線による、ナチの侵略から甦った「栄光の記録」には、一、我ら国土の開放。 二、フランスの政治的、経済的な独立。三、フランス国民が将来の政府を選択する自由。を掲げた蜂起の指令書は1944年7月4日ホテル ディユーから発したパリ解放の誓いである。
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