水鏡
水面にうつるすべてのものは風にゆれ。
水の表面に現れた象を視覚はとらえています。目は光を受容する器官で光のなかで騙しとらえていく自分が五感という器官のみで世界を再放出していると言います。
一見自分は観察者ではあるがそこに映るすべてのものと同一的にゆらぎ続けている。このゆれはどこからくるのでしょうか。仏教では心には色もなければ形もないしかし対象を映しだすという属性を有している、心に映るものは確固として存在しているかのようですが、よく分析してみれば実体を欠いていると言います。
実体を欠いているのであれば鏡の中でゆれている根源的な不安を消滅することができるのでしょうか。また、映しだす属性を有しているのであれば自他共に共鳴し波動を感受している。それはどんなに微小な一波も瞬時に無意識のうちに受けていることになります。この連鎖はたとえばテレビニュースの中で他国の忌わしい内戦の様子やテロによる無差別殺人の様子など他の喜びのニュースよりも多く放送されています。それはテレビのスイッチをオフにすれば終わることでしょうか。この不幸な衝撃波は次の瞬間すべての生き物のうちに見えない傷となって身体に刻み付けられていきます。人は己の傷の在りかに気付くこともなく毎日淡々と生活しているのかもしれません。たとえ無力な身体であっても誰かの傷が少しでも癒えますようにと願うことはできるかもしれません。
私にとって人形を作るということは、その願いにも似て人の内面と外面の写しの現れかもしれません。
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