海から離れて FLASH    2007
312×694×237mm    iron,vinyl




藤井健仁の制作について
 
 鉄は最初に鋭利な凶器となることで争いを重大化させ、それに伴い現代にまで至る、権力、富、暴力による社会の長大な階層化をも後押ししました。それはイノセントな素材を人の悪意や欲望によって歪曲、加工したということではなく、鉄に出会い、導かれて人が自らの過剰な悪意を自覚した結果とも考えられます。
それならば、その最初の出会いに遡り素材を無垢な状態に還元しようとする試みは、鉄と人との永い因縁を念頭に置かねば非常に困難なものと成るでしょう。なぜなら、私たちはその因縁の上に生まれ、考え、生活しているのですから。
藤井健仁は「彫刻刑 鉄面皮」「NEW PERSONIFICATION」と云う二種の制作により、この鉄との因縁に関わろうとします。

「彫刻刑 鉄面皮」
「彫刻刑 鉄面皮」は、近現代という、鉄が生み出した状況によってアイデンティティーを獲得、或いは維持している人物達を「鉄」によって立ち現された「人間」であるとして、その容貌を一枚の鉄板の打ち出しによってトレースする作業です。実際に人物の風貌が形成されていく過程と同様に、内面や精神性によって形成される部分は 裏側(内側)から、外的要因及び社会性によって形成される部分は表側(外側)から叩いて造形し、内と外が拮抗する境目である顔の表面(一枚の鉄板)に個の存在を再現して行く事でその生の追体験を試み、対象存在への善悪を超えた肯定感さえ抱きつつ、逆に「鉄」にあたえられたアイデンティティーを相殺し、「等身大の生(の彫刻)」に還元しようとするものです。既成の、ありふれた顕彰銅像彫刻や風刺的な似顔絵といったジャンルと隣接するかのように見える物ですが、そうしたのを編集、流用することなくむしろその中心を、先入観を無化する程の凝視と描写、それに伴う強靱なディティールによって突破することで異化やアイロニーによるものとは全く異なる着地点に到ろうとします。
諦観せず、記号化されたかに見える著名人たちの中にもう一度、生身の人間を発見し、それを直角に凝視すること、これは昨今の意識のモザイク化、もしくはオーウェルが「1984」にて示した「ニュースピーク」※的風潮に対しての藤井からのささやかな反撃であります。

「NEW PERSONIFICATION」
 そして藤井が鉄と関わってゆく中で見出した、もう一つの方法、それが「NEW PERSONIFICATION」です。
この制作は鉄と鉄の生み出した自我とを相殺させる「彫刻刑 鉄面皮」とは逆に、鉄から派生する言語イメージとは全く重ならない・・・むしろ背反するジャンルともいえる・・・「人形制作」と「鉄」との並置を試みています。
この制作に於いて藤井は人形作家として勤勉に労働し、人形を可憐に形成する事に専心するのですが、素材である鉄はその労働に応える事無く「鉄」は「鉄」のまま、もしくはその内容の可憐さに比例してより獰猛さを増し、素材と内容は最後まで融和する事なく奇怪な緊張感を保ったまま密度を増して行き、「矛盾の静物」として作品は完成します。
「鉄」のままでありながら「人形」でもある、こうした状態に止揚し続ける有様はあたかも「鉄そのものの擬人化」とさえ呼べる現象かもしれません。

この二つは方法はどちらかが主か従と云うことも無く、鉄を叩いて造形するという実作業自体はほとんど同様なものでありながらも、素材へのスタンスに於いてはかなり対極的であり、相互を補完しあう事はなくむしろ矛盾を曝し合う関係かもしれません。けれども現在、心と環境、つまり世界の内と外双方を後戻りできぬ程に変えてしまった「鉄」と差し向かう為に、藤井はこうした引き裂かれた状態となることも辞さずに制作を続けています。
それはある高みや別の場所を仮想することもなく、現実の事物と美術の境界点上で泥仕合を続行しようとする決意の顕れでもあります。

※「彫刻刑 鉄面皮」は2008年8月、当ギャラリーにて開催予定です。

ストライプハウスギャラリー

※ 「ジョージ・オーウェルの『1984年』に登場する、超管理社会を支えるために英語から作られた新語法。これによって全ての言葉から政治的および思想的な意味がなくなってしまい、最終的には政府の施策に反対するための言葉がなくなってしまう
「ニュースピークは思考の範囲を拡大するためではなく、むしろ縮小するために考案されたものであって、その目的は用語の選択を最小限まで狭めることで間接的に助長されたのであった。


GAY CAT BREED   2006
315×160×813mm   iron








UNTITLED   2005
215×105×95mm   iron





藤井健仁作品への試論「新しい対極」
2007.2.19
                   川崎市市民ミュージアム
                         仲野 泰生

「鉄の宇宙は直接に手の届く世界ではない。そこに近づくためには、火を、硬い物質を、力を愛する必要がある。人はただ、根気よく訓練を重ねた創造的行為を通じてのみその世界を知るのだ」
(『鉄の宇宙』ガストン・バシュラール※1)

 高度資本主義の蔓延によって、気がつかないうちに自分の生き方や欲望までがもコントロールされ、細分化されている現代日本の社会。このような社会の中で表現者として生きていくのは、なかなか困難な生き方かもしれない。そんな生き方をあえて行なった日本人の一人に岡本太郎がいる。岡本は戦後、パリでのアーチストとしての生活より「泥のような日本の現実※2」の中で、全人間的に生きることを選んだ。彼はこの日本を生きる方法として「対極主義」を提唱。「対極主義」は、はじめ岡本の絵画制作の中から「シュールレアリスムの技法」の変容として生まれたようだ。例えば「ディペイズマン」や「ダブルイメージ」などの発想は、初期の岡本絵画の謎を紐解く鍵になっている。しかし、最終的に岡本は「対極主義」を「ダイナミズムを起こす装置」として、『太陽の塔』などにみられるように対極の一つを「己の作品・生き方」にし、もう一つの極を「大衆」に定め「大衆と芸術」の対極主義へと、さらに展開していくのだが。
 ここで語る藤井健仁も対極を抱えながら制作している作家に見える。藤井が鉄の素材で作る著名人たちの面や少女、そして猫や昆虫たちの世界。彼はどうして、これら作品の創造主となりえたのか。この拙文は、藤井の作品に近づくささやかな試みである。
 鉄は(頭の中の知識を辿ると)近代を支えた素材である。武器であり、車であり、ビルの建築材である。現代日本の都市のあらゆる所に、様々な形で変容を繰り返しながら偏在している。また、鉄は古代に発見されながら、木や土や石などの自然の素材とは明らかに異なる変化を遂げた物質だ。ところが藤井の作品に真正面から向き合うとき「鉄の本来の形象とは?」「鉄はどのようなときに真の姿を顕わすのか?」など、幾つかの鉄をめぐる問いが私の頭の中を巡る。
 藤井は、自分の中で系統的な制作の流れを幾つかもっている。この意図された制作は旧来の彫刻家の作業というよりも、労働(鍛冶屋)に近い。たとえば、彼の鉄面皮のシリーズ。鉄そのものを藤井の身体による力技で、メディアやわれわれの記憶に浮かび上がった人物たちの顔に変える。現代の仮面の誕生なのか。否、メディアに流布されるこれらの人物たちから意味を剥ぎ落とす為に、藤井は鉄との労働に徹する。以前の個展ではこの鉄の顔たちが、さらし首のように並んで展示された。現代は「前近代的社会において意味を担っていた仮面」が存在し難い時代だ。かつては人間でありながら仮面をつけることで、人間を超え、霊となった。仮面は、安定した共同体を祝祭的に揺さぶり、生の活性化を促す役割として存在していた。しかし、藤井の鉄の仮面はまるで死に向う「供儀」のように見える。仮面とされた三島由紀夫や麻原彰晃等が、「いけにえ」なったのではない。何故なら、鉄と格闘し、制作の中に没入することで生まれたこれらの仮面は、誰彼に似ているという次元を超え(もちろん似ていることが前提になるのだが)、「個」の果ての「個」になっていく。つまり、現代日本に生きる我々誰にでも当てはまるような無意味でありながら深層的でもある「個」に。だから藤井の鉄面皮が多義的な意味で「供儀」に見えるのは、モデルの形象を作りつつ、モデルに貼りついた意味を叩き、素材の鉄の意味さえも消し去ろうとしているからだろう。
 ところで藤井健仁は自身の制作の中に、反語的な意味で「近代彫刻史」を内包する作家である。オーギュスト・ロダンを思い起こすまでもなく、人体を制作することで量・面・動勢等の造形言語を発見し、「近代彫刻」は発展してきた。しかし、藤井のもう一つのシリーズ「NEW PERSONFICATION」と名づけられた鉄の人形たちは、「近代」のアンチテーゼとしての存在感を持ちつつある。それは彼が作るのは、あくまでも「人体」でなく「人形」だからであろう。「仮面」や「人形」は、近代彫刻史から巧妙に外された表現ジャンルである。ところが彼の制作した「仮面」や「人形」は、近代の彫刻として育まれた視点や技術の上に成り立っているようにも見える。だから彼自身の制作の中に、反語的な意味も含む「近代彫刻史」が内包されているといったのである。彫刻史を自身の中で内包しつつ、矛盾した位相に転位した彼の「仮面」や「人形」たち。鉄という素材と「人形」というモチーフの対極的な並置を自ら抱えて、藤井は制作しているのではないだろうか。また、藤井の「人形」は、幕末の反近代的産物である「生人形(いきにんぎょう)」に近い存在ではないかと思う。明治以降の近・現代日本の消費社会の中で、鉄による作品を作りつづける藤井の姿は、私にロダンの人体彫刻と対峙する「生人形」の製作者・松本喜三郎※3(1825−1891)を想起させるのである。「生人形」は幕末に見世物興行の細工物の一つとして発展した。この松本のロダンとは異なるすさまじいリアリズムは、幕末の大阪・難波新地や東京・浅草の興行場に集まる大衆の欲望を具現化するものであった。スミソニアン国立自然史博物館・保存研究所の調査
によると、松本の「生人形」の素材は木彫を基本としているが、ガラスの眼球のはめ込みや頭髪・陰毛・腋毛は1本ずつ植毛されていることがわかった。皮膚のリアリティは、ジェッソ剤の上から顔料の彩色と漆を併用しているのである。木という伝統的な素材をいじりまわし、極点に達した技法は全て松本自身の手業の所作から生まれている。この技法に類する現代作家とを簡単に比較してみたい。例えば、現代日本を代表する木彫の彫刻家・舟越桂。舟越の作品は木彫を基本とし、ガラスの眼球や彩色をするミックスド・メディアの技法ということでは「生人形」の技法と似ている。しかし、出来上がった作品は、何かが大きく異なるのだ。それは、松本喜三郎の作品は幕末の見世物的な俗世界にありながらも、松本の作品は「近代性」をすでに獲得していたのではないかという点。それに対して舟越の作品は近代主義の文脈の中で、優れたセンスにより生まれた作品である。その意味で二つの作品世界は、見た目は似ているが、その内実は全く異なっている。
さて、今回の藤井の出品作品にも、舟越作品に近似した形でトリミングした胸像の少女像がある。藤井の作品は、全身像で作られることが多いが、新作『海から離れて(bust)』は上半身の作品。舟越の作品は木に彩色を施し、人間の皮膚に近づこうとする表現に見える。反対に藤井の鉄の少女は、鉄の皮膚を持ちつつ人間の少女像とは距離を保っている。つまり少女・人形というモチーフのイメージに追従せず、鉄の素材が内在する獰猛な暴力性までも同時に保持しているのである。また、彼の作る少女の顔は、異形の面立ちであり、先の鉄面皮シリーズの表情とも異なる。この異形の面は、藤井の妄想の産物というよりも、オセアニアやメキシコの仮面を連想させる。アミニズムに彩られた集合的無意識の形象である仮面に、彼の人形の顔が近づいてみえるのは何故か。
それは、アンドレ・ブルトンがメキシコを訪れたとき「ここはすでにシュルレアリスムに溢れている※4」と発言した位相と、彼の鉄人形の世界が通底しているからかもしれない。つまり藤井の作品は、鉄を徹底的に弄繰り回した結果、鉄でありながら鉄でない鉄の新たな極点を垣間見せ、イメージに拠らないもう一つのディペイズマンを可能にしているのではないだろうか。彼の作品は、舟越の木彫があくまでも木という素材の調和の中にあるのとは対極の世界なのである。また、松本喜三郎の「生人形」が、日本が近代主義に追従する前に、優れた「近代性」を内包し凌駕した作品だったのと同様に、藤井健仁の「鉄の人形」も鉄という近代の象徴的な素材を使いながら、鉄の「近代」の意味・位相とはまったく異なる次元の鉄自身の顔・表情を見せたのである。そして、鉄面皮と鉄人形の二つの極点を持ちつつ制作する藤井の姿勢こそ、新たな物質のディペイズマンであり、新しい対極主義の可能性を私たちに見せてくれるのだ。

1ガストン・バシュラール『夢みる権利』1977年渋沢孝輔訳 筑摩書房刊行 
2『別冊 アトリエ 岡本太郎特集号』1955年 アトリエ刊行
3『生人形と松本喜三郎』2004年熊本市現代美術館 図録 
4アンドレ・ブルトン『魔術的芸術』1997年巌谷國士監修訳 河出書房新社刊行

転校生    2005
425×150×135mm   iron   個人蔵



 藤井健仁 Takehito Fujii
1967 名古屋市 生まれ
1990 日本大学芸術学部 卒 学部賞
<個展>
1992 個展 愛宕山画廊 (東京)
1996 小品展 gean art speace (埼玉)
2001 個展「EXCULPTURE」 gallery APA F2 (名古屋)
2001 個展  アートコレクション中野 (名古屋)
2002 個展「EXCULPTURE」 gallery APA F2 (名古屋)
2002 個展「EXCULPTURE」 PORT DES ART (東京)
2003 個展「NEW PERSONIFICATION」ストライプハウスギャラリー (東京)
2004 個展「彫刻刑 鉄面皮」 ストライプハウスギャラリー(東京)
2005 個展「NEW PERSONIFICATION Vol.2 PSEUDO METAL BOSSA」 ストライプハウスギャラリー(東京)
<グループ展>
1993 ひらつか野外彫刻展 優秀マケット
1996 スタジオ展 スタジオ バンクハウス(坂戸)
1998 WORK'S 98 横浜市民ギャラリー
1999 新世紀人形展 ストライプハウス美術館(東京) 日向あき子賞
1999 WORK'S 99 横浜市民ギャラリー
2000 「式典/弥生」アートサロン アクロス(東京)    天童大人(詩人)プロデュース
2000 WORK'S 2000 横浜市民ギャラリー
2002 [KOREA MASS/JAPANESE FIGURE] (MOK AM MUSEUM 韓国)
2004 第七回岡本太郎記念現代芸術大賞展  (川崎市岡本太郎美術館)入選
2005 第八回岡本太郎記念現代芸術大賞展 (川崎市岡本太郎美術館)準大賞
<その他  舞台美術、作品提供>
1991 実験コンサート「夜の讃歌 其ノ二」玄忠寺(静岡)演奏/東儀 秀樹 他
1993 パフォーマンスセッション「夜の讃歌 其ノ三」(静岡)  舞踏/櫻井 郁也
1994 舞台作品「深き淵より」第一夜『霧』(東京) 舞踏/櫻井 郁也 他
2002 ビジュアルコラム「鉄・面・皮」をビジネス誌 JN[実業の日本]に連載(1月号より3月号まで) J−novel(実業乃日本社)にて2002年7月号より2003年5月号まで連載
2002 「日本人は戦争と宗教をどう考えるか」表紙に作品提供 橋爪大三郎・島田裕巳 共著 朝日新聞社 刊
2003 「追憶の夜」表紙に作品提供 山上たつひこ 著 マガジンハウス 刊
2004 「擬金属 藤井健仁の仕事」(彫刻と愛読書の展示)青山ブックセンター六本木店
2005 フジテレビ「art lover」6.17 O.A[藤井健仁 鉄と向き合う]
<掲載記事等>
関連文献
1992 個展パンフレット 序文 土谷 武氏
産経新聞 8/2 展評
赤旗 8/21 展評  
1994 個展パンフレット 序文 櫻井郁也氏
1999 「新世紀人形展」図録「人・形・愛」 作品評 日向あき子氏※
2003 個展「NEW PERSONIFICATION」パンフレット 越後谷卓司氏「シリアスでいて、猥雑な…」
2004 個展「彫刻刑 鉄面皮」パンフレット宮台真司氏『いま私たちは鉄の声を聞くことで三島や麻原を超える〜藤井健仁「彫刻刑 鉄面皮」展覧会に寄せて〜』

朝日新聞 8/26 展評 田中三蔵氏「藤井健仁展/ギュンターユッカー展」

読売新聞 12/8夕刊 「回顧2004美術・4氏が選ぶベスト5」 
椹木野衣氏のベスト5に個展「彫刻刑 鉄面皮」(於ストライプハウスギャラリー)選出

VOICE(PHP出版)10月号 現代|美術|2004 椹木野衣氏 第34回 藤井健仁「似顔の恐怖」

美術の窓(生活の友社)11月号「現代美術の歩き方24アーティスト&133アートスポット」

季刊REAR No.8レビュー馬場駿吉氏『鉄は虚飾を剥ぎとる-藤井健仁展「彫刻刑 鉄面皮」』                 
2005 朝日新聞 3/2夕刊 西田健作氏 ようこそ/『ぶったたいて作る「鉄面皮」』

ランティエ。(角川春樹事務所)4月号 麿 赤兒氏「麿 赤兒が選ぶART情報」

ARC アーク(レイライン)9号  編集長  東郷禮子氏によるインタビュー
『彫刻家 藤井健仁に聞く-岡本太郎美術館を突撃した「スゲー」鉄たち』
2006   「美術に何が起こったか 1992-2003」椹木野衣氏著 国書刊行会

転校生/そよ風   2006
655×220×205mm
   iron   個人蔵



2、3、5枚目の作品写真撮影:堀勝志古

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